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2024.1.9 07:00ゴー宣道場

Beautiful or not

【ゴー宣ジャーナリスト】ブログ、火曜日担当の だふね です。改めまして、皆さま、本年もよろしくお願いいたします。

私は小学生の母。長いお休みは、脳味噌がとても疲れます。休み明けはとにかく気が抜けるので、慣らし運転が必要。なので今回は、以前から半分戯れ、半分マジメな調子で書いてみたかったことを。それは「美人」について。

トッキーさんもごく最近のブログで、「幻想美人論」(『ゴーマニズム宣言➀』所収)を採り上げていました。よしりん先生はこの中で「美人の概念は、自分の内にある」「多人数の男が決めた美人にしかドーパミンを放出できない男は、幻想力、つまり生命力が弱い」(要旨)と述べられ、美人とは絶対的なもの、普遍的なものではないことを説き明かしてくれています。

私も、「美人とは」について考える際、解剖学者・養老孟司氏の言葉を連想してしまう。

<ふつうの女性の顔写真を百人分集めて、コンピュータで重ね合わせます。そうすると、むろんいささかピンボケ顔になりますが、それでも美人になるんです。これって、なかなかむずかしいでしょ。だって、フツーの顔を百重ねたって、フツーの顔にしか、なりようがないじゃないですか。ふつうはそう思う。でも、実際はそうじゃないんですよ。なんと美人になっちゃうんですよ、これが。>
<なんでだろうって、考えましたな。フツーの顔を重ねていくと、どんどんフツーになるのではなくて、どんどん「特別な」顔になっていく。ネッ、ここでわかるような気がしませんか。フツーの考えを「重ねて」いくと、だんだん「ノーベル賞級の考え」になっていくんですよ。つまりどこに誤解があるかというと、美人とは、稀な資質だと考えるところにある。そうじゃなくて、「あまりにも、あたりまえ」のことが、本質的なことなんですよ。あたりまえの極限が美人なんです。同様にして、あたりまえの極限がノーベル賞なんですよ。>
(養老孟司著『運のつき』(平成16年3月初版)より抜粋)

ずっと昔、私の夫に、ある女性芸能人の顔をさして「可愛いと思う?」と訊いたことがある。何となくの流れで。女優などに毛の先ほどの関心も示さない夫とは、普段こういう会話をしない。

夫「いや…、フツーちゃうか?」
私「そう? 好きな女優とか、やっぱおらんの?」

夫は、女性の外見を褒めたりけなしたりしたことなど、大袈裟でなく一回もない。「人間の価値をそこに求めない」という哲学でもなく、シンプルに興味がないらしい。
私みたく、男でも女でも美しい人が大好きで、何人も同時並行ですぐに入れ揚げる俗物を、なぜ伴侶にしたのか不思議なくらいだ。

夫「『美人』とか『可愛い』っていうのは、突き詰めていけば、みんな『フツー』ちゃうか? みんなが理解しやすい、わかりやすいっていう意味で、『フツー』なんやわ。そりゃ○○(ある女性芸能人)なんかも一目見たら『おっ』と思うか知れんけど、すぐに『フツー』に見える。だって、あたりまえの美人にすぎんから

要するに、養老孟司の唱える「あたりまえの美人」「ノーベル賞級の美人」では、夫の心の琴線に触れることはないのだ。
夫はどのようなことでも世間一般の物差しには捉われず判断し、虚栄心ともまるで無縁。自分の直感を手放さず、信じた道を堅実に進む。しかし、本人は別に努力してそうしているのではなく、まったく自然なのである。

さて、「美女」の対局にある「醜女」、すなわち「ブス」のことも書いておきたい。何となくタブーな雰囲気があるけれど、「美醜の差などあってはならない」の建前はつまらない。
美しいものを眺めていると気分が高揚する。醜いものにも、まぁ、それはそれで惹かれることもある。その感動を誰かと共有したい、表現したいという人間の気持ちがあるからこそ、芸術も存在するのだし…。

以前、よしりん先生はあるイベントで、「“すごいブス”に出会った時の話」をして会場を沸かせたことがある。私は笑いながらも「いったい、どんな顔だったのか?」と必死で想像を巡らせていた。
美人って、わりとイメージしやすい。女優も大勢いるし、サンプルには困らない。しかし反対に、強烈なブスって、何を基にイメージすればいいのだろう? 口伝えだけでは、どれだけの醜さなのかがわからない。凡人たる私の限界だ。

よしりん先生の漫画には、女性がたくさん出てくる。フィクションでもノンフィクションでも。絶世の美女もいれば、アッと驚くご面相まで。
先生の脳内には、はっきりと具現化された、ものすごい数のキャラが息づいている。その中の美人やブスのキャラは、どのようにして形作られたのか?
まったく何もない状態から生まれるわけもないはず…とすれば、これまでいったい何人の女性に触発されてきたのか? 今もそのデータは蓄積されていて、いつでも取り出せるのか?
そしてもし、先生の前に、現時点の自分の想像(創造)を超える容姿の女性が目の前に現れたら、男としての本能よりも、漫画家としての「描きたい」意欲が刺激されるのか?
表現者・よしりんへの興味は尽きない。新たなキャラの誕生も楽しみだし、今後も目が離せない。

さて、よしりん先生と同じ男とはいえ、どんな美人も「フツー」に見える夫にとって「惹かれる人(女性)」とは、どのようなものなのか?

夫「(オウムの)麻原みたいなのちゃうか。顔そのものより、全体的なインパクト。美人かどうかより。忘れられないのは、そういうの」

夫の場合、美醜などの理屈を超えた、わけのわからないモノに魅力を感じるらしい。かといって、私は麻原みたいな「異形」でもないはずだが? 夫のセンスを、私は妻として喜ぶべきか、悲しむべきか…。

ある知人は「むずかしいことは言わない。素敵だ、可愛いと思う人はいっぱいいる。養老孟司に分析して欲しくない」と言っていた。まぁ、それが「フツー」の感覚でしょうな。私にはちょっと、それでは面白味に欠けるけど。

 

【だふね プロフィール】
昭和48年大阪生まれ。奈良市在住。主婦にして一男二女の母。ケアマネージャー。性格は‟慎重な行動派”‟陽気なペシミスト”(友人評)。趣味は映画鑑賞。特技は、すぐ涙を流せること。令和2年「関西ゴー宣道場設営隊(現・DOJOサポーター関西支部)」隊長就任。以後、現場を持ちながら公論イベントの盛り上げにも尽力。公私ともに濃密な日々を過ごしている。

 


 

 

【トッキーコメント】
左翼が「ジェンダーフリー」の次は「ルッキズム」で行こうとしているのは明らかです。
人間に男女差もない、美醜もないなんて、そんな世の中をつくってどうしようというのでしょうか? そんな無色透明無味乾燥の世界なんて、一種の「地獄」としか思えません。
そもそもルッキズム運動には、「美人とは絶対的なもの、普遍的なものではない」という認識があるのでしょうか?
「美醜」のテーマは、今後さらに取り上げていく必要が出てくるかもしれません。

 

 

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